ふじメディカル指導監督医Dr.駒井の、あったかい心温まるブログです。
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やさしさに出会う
病気
「やまだ○おさ〜ん」
呼ぶ看護婦の声で先に入って来たのは、紫色のスーツがよく似合う目のクリッとした色白の女性であった。
続いて濃紺の背広にその長身を包んだロイドメガネの紳士が静かな足取りで入ってきて、私の前の丸い椅子に腰を下ろした。
眉毛の濃いその紳士は顔つやもよく、一見患者さんには見えない。
カルテには、山田○夫、四十二歳とある。
短いあいさつの後、「妻です。」傍らの女性を紹介した。

私は、看護婦がそっと脇から差し出した、たった今、自現機から出てきたばかりの、つややかにひかっているレントゲンフィルムを一枚一枚、机の前のシャーカステンに挟んでいった。
傍らの夫婦の視線を方に感じながら・・・・。張りつめた空気が漂う中で、すべてが静かに型どおりに進んでいく。

私の眼は目はフィルムの隅から隅までせわしなく動き回った。
アイルランドの荒野で猟犬が獲物を探しまわってているかのように・・・・。


静けさの糸がきれた。
ある、あった。胃がんだ。
フィルムの名前とカルテの名前をもう一度確認した。
光っている黒いフィルムの向こうで、ロイドメガネの血色のいい顔が、みるみる内に、ぼちぼちとまばらな髭の頬のくぼんだ顔に・・・。目ばかりがギョロギョロしている。 
 そして身体にはふだん着のワンピースがまとわりつき、眼の下にクマのできた奥さんの顔・・・・。

シャーカステンから、このきちんとした身なりの中年夫婦に視線を移すのに、この一瞬の間に、私は誰にも分からない所で、
また一つの人生が崩れていく音を聞き、疲れた。

いともさりげなく、なごやかに、手術を要する旨を告げられたお二人は、深々とおじぎをされて出て行った。
戸口の所で、奥さんは、ためらうように立ち止まって私の顔を見つめていたが、
そのまま何も言わずにそっとドアを閉めて行かれた。

看護婦が次の患者を呼び入れるのを制して、
私は両膝にぐっと力を入れて立ち立ち上がった。
はた目には白衣を着た医者が静かに机を離れたに過ぎないのだが、私の中にはよろけそうになる自分があった。

私は、願いを込めて自分に言い聞かせた。
「いやいや手術はうまくいくに違いない。
薬は、予想以上の効果を上げるかもしれない・・・。」
机のわきの白い洗面器。
音もなく、私の手に絡みつき、そしてゆれる消毒液の中のガーゼ。
その横に積み上げられた医学雑誌の上に置かれているシクラメンの鉢

それは昨日のままだった。
二輪のフリージアのイラスト
 
| 15:30 | 診療室の窓から | comments(0) | trackbacks(0) |
老いない人々
月のイラスト1

 私の知っている患者さんに九十二歳のご老人がいます。

事情あってのひとり暮らし。高齢だからという事で周りの人が骨を折り、老人ホームに入所されたのでしたが、二か月足らずで出て来てしまいました。

かくてまた、もとの一人暮らし。

 優雅な独身生活を楽しんでいる。」と笑っていました。

月に二度きちんと高血圧の治療に来院されます。杖を片手にですが、足取りにみだれなく、補聴器をつけてですが、日常会話に支障なし。

毎朝決まって二合の飯を炊きます。一日分の主食として。

 「一時七十キロあった体重を太りすぎなので、六十キロに落としました。

「ダイエットです。」「ご不自由ないですか。」という私の野暮な質問に、「いや、中々のものです。」と気負いもみえません。

3

知人に歯科医がいます。今年八十九歳になりました。

この夏、開業六十年の看板をおろしました。老妻、娘、孫たちが集まってささやかに打ち上げ式をやったという事です。

その胸の内、察して余りありますが、淡々と受け止められているように見えました。

そして現役のときと同じように楽しいことがあると声を出して笑っておいでです。

この秋アメリカ旅行を計画していると聞いています。持病は左足の神経痛だそうです。

5

また長年、半身不随だった夫を看病し、夫の最後を看取った後、一人暮らしになってしまった老婦人は、私の友人の母親です。

八十三歳になったという事ですが、赤い口紅がよく似合い、ピンクのマニキュアや、ちよっと厚めの耳たぶにつけているイヤリングが中々にいろっぽい・・・・。

軽い白内障と腰痛で時々医者通いをなさっているとか。



本件出身の歌人、土屋文明氏が「名誉県民」として顕彰されたということです。

この日本歌壇の最高峰といわれ、生活的、即物的な歌風でしられる氏は、本年九十六歳の齢、まだまだ現役でおられます。

戦後、ほとんどの歌人が敗戦の社会を悲歌に託したが、文明氏だけは、苦しみ、嘆きの中に新しい時代を、春の前触れを感じささやかな喜びの声を混えて歌を詠んだといわれています。

今老年人口(六十五歳以上)は、約千三百五十万人、その数だけのさまざまな年の重ね方があるわけですが、健康に長らえるためには、心の在り方も問われる様に思います。

おいてなほ
気取り手くるは われのみか
白髪頭にデニムのいで立ち。

土屋文明氏の最近の作であります。

| 11:30 | 診療室の窓から | comments(0) | trackbacks(0) |
やさしさに出逢う
 早春

[春よ来い、早〜く来い。]
 

四季の移ろいは、心のリズムとなって、私達の日々の生活にどっかりと根を下ろしている。

そして、とりわけ春は、「歩き始めたみよちゃん」でなくても待ち遠しい季節。

大願成就し、希望に胸ふくらむ誇らしい春、はたまた試練の時となり口唇を噛みしめて、来るべき冬を思う春。
 

 この時期、木の芽や花の蕾は、いまだ硬く、冷風にさらされてはいるが、今年もまた、入学に、就職にとにぎやかな季節がやってきた。

Y・K君彼にとってはほんとうに晴れやかな春がやって来た。
 

 今年、商業高校を卒業し、長いこと心を痛め続けてきた社会生活への足場は、某印刷会社に内定することで報われた。

私の所へ、その事を報告に来て下さったお母さんんの眼には、キラキラと涙が光っていた。

何度もお会いしたことのあるこの気丈な母親が、私に初めて見せた涙であった。

彼は幼少の頃、不幸な出来事で、一酸化炭素中毒にかかり、当時としては、奇跡的に命をとりとめたのだった。
 

 爾来十数年、頑固な頭痛としつこい痙攣発作につきまとわれ続けながら成長してきたY・K君。彼は生涯、薬と縁の切れない体になってしまっている。
 

「私のせいで・・・」K君が一緒にいない時、母親はよくそう口にしていた。そしてまた、息子は母のその言葉をきらっている、とも言っていた

いつになく大人っぽく見える今日の彼は、「発作と僕は友達さ。仲良く付き合っていくから・・」といたずらっぽく笑ってみせてくれた。

年若い彼がそんな心境に達するまでにはどれほどの苦汁を味わったことだろうか。4
つい昨日、朝の出がけにすみれが数本、庭の片隅に紫色の花を咲かせているのを見つけて、私はおどろいた。「

なんでまた、こんな時期にすみれが・・」と妻に問うたら、妻は笑いながら「においすみれ」といい、この花は、こんな寒い時期に咲くのだと教えてくれた。

もう間もなく土手の桜もほころび始めることだろう。桜は春の代名詞、だが、すべてにあらず。


花をのみ、待つらむらむ人に

山里の

雪間の草の春をみせばや

(藤原家隆、 歌集より)


それぞれに、それぞれの春があり、それぞれの春の迎え方があるのだ。

| 10:51 | 診療室の窓から | comments(0) | trackbacks(0) |
夏祭りの老人
 六十年に一度という雨の多い今年の夏ではあったが、そんな不純な天候のあいまをぬって、今年もまたあちこちで、夏まつりのにぎわいがが聞こえてきた。そんな祭りの囃子を聞くと、私には決まって思い出す一つの顔がある。18

当時は、私の一家は前橋に隣接した大胡町に住んでいた。まだ幼なかった長男、長女にせがまれて祭りに出かけて行った。小学校の校庭の中央に櫓が組まれ、それを取り巻いて盆踊りがまっ最中であった。子供達は盆踊りを見るより、まわりの出店の方に関心があるらしく、盛んに私の手をひっぱっている。そんな時、ふと、色とりどりの着物姿で踊る人達の輪の中に、見覚えのあるひとりの老人の顔を見つけた。

普段着のまま、よれよれの手ぬぐいを首にかけて、その老人は一心に踊っていた。

まわりの人達と手・足の振りが合わないようだが、おかまいなしだ。真っ直ぐ、前を向いてひどくまじめな顔で踊っていた。あの老人の妻は、私の所に、長い間入院していたが、亡くなってまだ日が浅かった。くも膜下出血という病気で倒れ、手術を受けたが、その後はねたきりになってしまっていた。手足も思うように動かず、痴呆もかなり進んでいた。

老人は朝早くやってきて、細々と妻の面倒をみていた。
食事の介助、排泄の世話、熱が出ると氷枕を作り、爪切りや、妻の下着のつくろいまで、不器用なてつきでやっていた。そして夕方、食事を食べさせて、おむつを替えると、待つ人もいない自宅へと帰っていったのだった。

丸二年、大雨の時もやってきた。排便の後は、妻のおしりに顔が付く程に近づいて、ゴシゴシとふいていた。お年寄りのこととて、汚れはかえって拡がる事もあったが、看護婦は昼間はあまり手を出さず、老人が帰った後、お尻をふきなおす、という事もあったようである。

口数の少ない、無愛想な人であった。私が一度「大変でしょう」というとニコリともせず、「いやでもしゃあねぇや。ばさんがこうなったんだから。」
汚れたおむつを手に「そら、どけ!ばあさんのくそが通るぞ、きたねぇぞー。」と人払いしているところに出くわしたことがあったが、老人の手には、汚れたおむつがしっかりとにぎられていた。
今はその奥さんもなくなって、老人には一人ぼっちの生活が始まったはずであった。

踊りの輪の中にいるあの人の心の内は、知るよしもなかったが、元気に暮らしておいでのようだと、わたしは密かに安どした。その後、私はあの老人に会ったことはないが、今でも祭りばやしの音色は、きまじめな手振りで、踊りつづけていたあの人の顔を呼びおこすのである。

夏祭りのイラスト1
| 13:57 | 診療室の窓から | comments(0) | trackbacks(0) |
最後の一葉
 
日ごろの生活の中で、何気ない一言が思いもかけず相手をひどく傷つけてしまったという
事、またちょっとした一言で勇気を取り戻したという事の体験はだれにもあるだろうと思います。

まして病める人たちには、たったの一言が時には妙薬になり、時には鋭い刃物にもなるのだという事を私は時折経験します。
夏のイラスト

七十を少し過ぎた痩せた女の患者さんが、病室の窓際のベッドに入院していました。

夫に先立たれ、実子もいないというう事で、入院しても訪ねてくる人とて少なかったようでしたが、話し方ももの静かであまり目立たない人でした。

病状が悪化し、高熱におかされ始め、治療を重ねてもなかなかよくなりませんでした。

高齢のこの患者さんには、いく日もつづくこの熱がよほどこたえたのでしょう。

食欲も次第になくなり段々に弱ってきました。ところがあるころより熱が下がり始め、同時に食欲もすすむようになり、少しづつ元気を取り戻してきたのです。

その患者さんの病状が回復した頃、私にしみじみと話をしてくれたことがあります。

「熱がつづいていた頃、本当に苦しかったんです。私が元気になったところで喜んでくれる身内もなく、こんなに苦しむならいっそ早く楽になりたいと思いまして見回りに来てくれた看護婦さんにそういってしまいました。

するとその看護婦さんが,『〇〇さん、先生も看護婦もみんな、あなたの熱が下がるように、一生懸命がんばっているんです。〇〇さんが元気になってくれたらうれしいのは私です。』こう言ってくれたんです。

その時、初めて、ああ、がんばらなければ・・・・・とおもいました。

そうしたら、段々熱が、下がって来たんです。

あの看護婦さんの一言が私を助けてくれました。」
七夕・天の川のイラスト
治療の効果が時を同じにして出て来た、という解釈も医学上は成り立つでしょうが、目に見えない精神力、「治りたい」という患者の気力の重さを見逃すわけにはいきません。

O・ヘンリーというアメリカの作家の短編小説「最後の一葉」という中に、病人のそんな心理が描かれています。

その後、その患者さんは、「良くなってみれば命はやはり惜しい。」と笑っていました。
| 11:17 | 診療室の窓から | comments(0) | trackbacks(0) |
わたしの宝

私の宝

一組の老夫婦がいた。夫Aさんは四十年 の長きを国の公僕として全うし、数年前に退官、そのことを余生の生きがいにしていたが、再発の不安を抱えたガンの患者であった。

息子夫婦に母屋を譲り、二人は離れの一室に暮らしていたが、妻が脳血栓に倒れた日、Aさん夫婦はそろって入院、隣り合った病室に身を横たえる日々を余儀なくされてしまった。

 私がA夫人の病室を訪ねたある時、隣のベッドに寝ている初老の患者さんがしんみりとした口調で、「先生、この方のご主人、本当に温かい人なんですよ。夜ねる前には、必ずこの部屋に来て、奥さんの様子を見ていくんです。奥さんが眠っている時は、じっと顔をのぞきこみ、髪の毛を撫でて黙って部屋を出ていくんですよ。」

 そこへ、Aさんが入って来て、「こいつは私の宝です。こんなクシャクシャばあさんだど・・・・・」と照れる様子もない。

 入院した時に、「私は酒を飲むことと、仕事をすることしかしてこなかった。家の事はみんなこいつにまかせっきり。でもみんないい子に育って。」と語っていたAさんの言葉を思い出す。

 夫人の亡くなった日、Aさんは 自分のベッドに正座してうつむいていた。私の顔を見て、老いた目から涙をこぼし頭を下げたが、言葉はなかった。
クローバーのイラスト1
 
その後、小康状態のAさんの退院の話が出た時、子供さんたちはみんな渋っていた。「帰ってきっても居る部屋がない。離れは子供部屋になってしまったので、もう少し待ってほしい。」というのが子供さんの言い分であった。

Aさんは「息子たちも大変だから。」と言葉少なく語った。どうにか退院できる事になり、庭先に作ってもらったプレハブの部屋で生活をはじめた一週間後、Aさんは心筋こうそくの発作を起こして急死した。夫人の死から二カ月後のことであった。

 小雨降る中お焼香に伺ったが、玄関脇には山吹の花が鮮やかに咲いていた。

先日、たまたまAさんのお宅の前を通りかかったところ、同じ場所に咲いている山吹の花の色を見て、あれからちょうど三年の月日が流れた事に気がついた。

| 10:53 | 診療室の窓から | comments(0) | trackbacks(0) |
両刃の剣
 

両刃の剣

 

洋の東西を問わず、古今を問わず、酒は私達の社会生活には欠くことのできない市民権を得ています。

 

酒は古来から、お神酒として神への供物でありました。酒に託して神の加護を受ける、酒をくみかわして人が神とお近くで語り合うという古代人の習しは、百メートルの海底下に五十数キロメートルのトンネルを掘り、列車を走らせる現代に至っても、いろいろな形で延々と受けつがれています。

冠婚葬祭はもとより、ちょっとした年中行事にも酒は隠れた主役であります。

 

我々の生活の中に、とっぷりと溶けこんでいる酒。祝い酒として万人を和合させ、

やけ酒として憂いを払う。はたまたわれわれは花見酒、紅葉酒、雪見酒などの風流を愛しています。
そして百薬の長。

 

この美味なるものがまかりまちがうと牙をむき出す、両刃の剣であることは

衆知のことです。

K氏は、りっぱな体格に似合わず、小さな声で静かな話し方をする人でした。

細かいことによく気づき、腰低く、時折り口の端に出てくる妻君への心配りからは、仲のよい夫婦、
幸せな家庭が想像できたのです。


ある時、妻君が私を頼って訪ねてみえました。夫が酒を飲んで暴れる、助けてほしい

という意外な話の内容でした。妻君のいうのには、夫は以前から酒好きで、毎晩、晩酌を欠かしたことがない、普段はおとなしい気持ちのやさしい人だけど、
飲むと怒りっぼくなるので余り
逆らわないようにして来た。

それでも仕事だけは休んだことがなかった。定年退職したころから、眠れないといっては、夜中にも起き出して飲み始めるようになった。

最近では飲むと暴れ出し、物を投げる、お膳はひっくり返えす、止めようとすると、私の髪をつかんで引きずり回わす、まるで別人のようになってしまう…:と妻君は震えていました。

 

 K氏は専門の医療機関で治療を受けることになりましたが、退院するとまた飲み始め、入退院をくり返えし、最近は肝臓も弱って来ており、仕事もしていないそうです。

 

「お父さんのお陰で子供達を一人前に育てられたんだから。」「こんな気の小さい人、見離せません。」と妻君は自分に言いきかせるように話していました。

 

ずいぶん老けたなあと妻君の顔をみながら私は、仕事好きだったK氏に、あの親しみ

深い笑顔が戻ってくることを祈らずにはいられませんでした。

    
           

 

| 16:12 | 診療室の窓から | comments(2) | trackbacks(0) |
リハビリテーション
 晩秋の柔らかな日差しに包まれたリハビリ室。

午後の訓練がもう始まっている。


所狭しと器具が並べられ、二十数名の、多くは年老

いた患者さんたちが黙々とリハビリに励んでいる。

 
 
平行棒につかまって歩行訓練をしている人。

滑車を使って麻痺した手を上げたり下げたりしてい

る人。

ホットパックを巻いている人。

指先の練習をしている人等々‥。

時々訓練士の大きな掛け声が響く。



そんなリハビリ室の入口近くに車椅子に乗ったまま

のSさんがいた。


無表情にみんなのやることを、ただ見ている。

いつもは率先してやっていた人なのに・・・・。


「どうしたの?」

返事がない。代わって訓練士が「もうリハビリはやり

たくないっていってるんです。


励まして何とかここまで連れてきたんですけど・・・。

車椅子からおりないんですよ。」


そして彼は私の耳元で「Kさんが亡くなられたでし

ょ。だから、がっかりしているんです。」と説明。


SさんとKさんは、入院中に知り合い、

仲がよかった。


半身マヒの似たような症状に加えて、年も近く、

また、お二人の生家が同じ町内ということも

あって、急速に親しくなったようであった。


トイレぐらいは人の手を借りないでいけるように

なりたい、というのも共通した二人の願いであった。


二人はよく車椅子を連ねて、ここにやってきていた。


「歩けるようになりたいっていってただろ、

がんばろうよ。」


と私が声をかけても、Sさんは


「なかなか歩けるようになんかなりゃしないよ。

歩けたところで、私ら、先がないんだから。」

と、とりつくしまがない。


隣で滑車を使っていたT吉さんがジロリとSさんを

見て、「いやなら、やらなきゃいい。」


Sさんは黙って、不器用な手つきで自分が

乗っている車椅子を操作しながら出ていって

しまった。

 
スタッフの根気よい説得が効いてか、その後

Sさんがまた、リハビリ室に戻ってきた、との報告を

受けたのは数日後であった。


それからまた、何カ月かが過ぎ去った。 
 


 と、そんなある日。スタッフの一人が、

「先生、Sさんが並行う坊につかまって歩いてます。

見てやってください。」と私を呼びに来た。


それまでつかまり立ちしかできなかったSさんが、

歩いたという。


「もう一度歩いてみせてくれないか。」


ゆっくり立ち上がったSさんは、左手でしっかり

平行棒に身体をもたせかけるようにして、右足を

引きずりながら体を数歩、前に移動させた。


それは歩くといえる程のものではなかったが、

体は確かに前に動いたのである。


「すごいなSさん、その調子だ」

私が大きな声を出した時、背後で拍手した者が

いた。


それは、いつも仏頂面をしてリハビリをしている

T吉さんであった。


十分には効かぬてを使っての拍手であった。


それにつられて、スタッフも、そして何人かの

患者さんも拍手に加わった。


はじめての不揃いな手ばたきがちょっとした

拍手の集団に変わった時、Sさんは笑っているような、

泣いているような顔をして、もう一度立ち上がり、

また数歩歩いてみせてくれたのである。





| 15:17 | 診療室の窓から | comments(22) | - |
病気
 「やまだOおさーん」と呼ぶ看護婦の声で先に入って来たのは、紫色

のスーツがよく似合う目のクリッとした色白の女性であった。

続いて濃紺の背広にその長身を包んだロイド眼鏡の紳士が静かな

足どりで入ってきて、私の前の丸い椅子に腰をおろした。

眉毛の濃いその紳士は顔つやもよく、一見患者さんには見えない。

カルテには山田〇夫、42歳とある。

短い挨拶の後、「妻です」と傍らの女性を紹介した。



私は看護婦がそっと脇から差し出した、たった今、自現機から出てき

来たばかりの、つややかに光っているレントゲンフイルムを一枚一枚、

机の前のシャーカステンにはさんでいった。

傍らの夫婦の視線を肩に感じながら・・・・・。

はりつめた空気が漂う中で、すべてが静かに型どおりに進んでいく。

私の目はフイルムの隅から隅までせわしなく動きまわった。

アイルランドの荒野で猟犬が獲物を探しまわっているかのように・・・・・。

静けさの糸が切れた。

ある、あった。胃ガンだ。


フイルムの名前とカルテの名前をもう一度確認した。

光っている黒いフイルムの向こうでロイド眼鏡の血色のいい顔が、み

るみる内に、ぼちぼちとまばらなひげの、頬のくぼんだ顔に・・・・・。

目ばかりがギョロギョロしている。

そして体にはふだん着のワンピースがまとわりつき、

眼の下にクマの出来た奥さんの顔・・・・・。



シャーカステンから、このきちんとした身なりの中年夫婦に視線を移す

のに、この一瞬の間に、私は誰にも分からない所で、また一つの人生

が崩れていく音を聞き、疲れた。

いともさりげなく、なごやかに、手術を要する旨を告げられたお二人

は、深々とおじぎをされて出ていった。

戸口の所で、奥さんは、ためらうように立ち止って私の顔を見つめてい

たが、そのまま何も言わずにそっとドアを閉めていかれた。

看護婦が次の患者を呼び入れるのを制して、私は両膝にグッと力を入

れて立ち止った。

はた目には、白衣を着た医者が静かに机を離れたにすぎないのだが、

私の中には、よろけそうになる自分があった。

私は願いをこめて自分に言いきかせた。

「いやいや手術はうまくいくに違いない。

薬は予想以上の効果をあげるかもしれない・・・・」

机の脇の白い洗面器。

音もなく私の手にからみつき、そしてゆれる消毒液の中ガーゼ。

その横に積み上げられた医学雑誌の上に置かれている

シクラメンの鉢。

それは昨日のままだった。
| 10:56 | 診療室の窓から | comments(0) | trackbacks(0) |
父親ばんてん
 








         

赤いはんてんを着たその女の子は、やっと

お誕生日を過ぎたばかりという小さな手を

母親の体に巻きつけて、両足を踏ん張って

泣いていました。

「ママァー、ママァー」と大きな泣き声の間から

聞き取れます。

「恵ちゃんや、恵ちゃんや。」と、名前を

呼びながら、母親は幼い娘に身をまかせて

笑っていました。


そんな母親の心の中を測り知る事は出来ません

でしたが、何となく場違いな笑い顔のように私は

思えました。


母親は心をやんでいたのです。 

入院中だったのです。

こんな母子の周りでオロオロと娘をなだめる傍ら

の若い父親。

とうとう泣きくたびれて眠ってしまった娘を、

大きな体で包むように抱きかかえながら

父親が病院をあとにしたのは、それからしばらく

経ってからでした。



私がまだ若かった頃臨時にある病院の当直を

頼まれていた頃の忘れられない情景です。

私も当時は父親になったばかりでした。


母親の入院はその後一年にも及びましたが元気

になって自宅に戻っていきました。



十余年経って私が小さな男の子をつれた

その父親に再び出会ったのは別の病院の

診察室でした。

全くの偶然で、でも父親は私を憶えていてくれまし

た。

「あーあの時の・・・・」

父親の顔は私に体じゅうで泣いていた

赤いはんてんの女の子をよみがえらせて

くれました。

「中学生になりました。」と父親。「奥さんは?」

その後一度再入院したが今は通院しながら元気

に家業を手伝っている、あれから二人の息子にも

恵まれた、と診察をおとなしく待っていた

男の子の頭をなでながら報告してくれました。


幾分年輪の刻まれたその顔は笑っていました。

だが父親はまもなく他界してしまったのです。

私が再会した時にはすでに、腹部にかなり大きな

塊を持っていたのです。

息子の診察が終わったのを見計らって「自分も

この頃調子が良くないから。」とおまけのように

診察を受けた結果でありました。

夫の闘病、そしてその死にもかかわらず自分の

病気を悪化させる事なく乗り切った母親は、

三人の子供達と共に婚家を離れて生活を始めた

と聞いています。

母子四人、離れ離れになることなく、今も元気に

暮らしているのでしょうか。

赤いはんてんを着ていたあの女の子は、もう中学

を終えている年ごろだと思います。















 




 

| 11:17 | 診療室の窓から | - | - |